上村君代さんの、前編 「1977年日本脱出」 

私はイギリスから帰ってきて英語を教えながら、外青会(外国人を暖かく迎える青年の会)のボランティアをしていて、そこへ会員が連れてきたのが彼。バンクバーから南太平洋へ自分の作ったヨットで旅に出て5年後、鹿児島へはカナダへ帰る途中ー逆戻りはできないからーだった。私はちょうど4月からアメリカのバス旅行を計画していたところで、彼が翌夏のカナダへの航海にメイトを捜しているのを知って、ヨットの経験がなくても良いっていうから「くっついて」行ったわけ。

両親にとっては2度と会えないかもしれないし嫁にやるような感じだったから、貸衣装で(和式でちゃんと鬘をかぶったよ)写真を(騎射場のはつだ写真館で)とって式のかわり。
世の中にはこんな男もいるんだ!と私はぞっこんでしたが、今考えると意識下で日本を出たかったのも確かだね。特にイギリスでの二年は私の人生を完全に変えてしまったと思う。

私は自宅の英語塾を畳んで、広島の英語学校で冬の間バイトをしていた彼氏に合流したのが1977年の3月末。広島を出てから瀬戸内海、太平洋と航海しながらーもちろん、鳴門海峡を通過したよ。潮時を選んでもけっこう渦巻いていたねー私はヨットのことを学びました。なにしろ、釣り船(叔父がよくキス釣りに連れて行ってくれていた)には乗ったことはあってもヨットは初めて。それが幸いしたのか、太平洋横断なんていう大事業に対する実感がわかないから、「船から落ちなきゃ大丈夫だし、船のことは徐々に教えるから」と言われて、軽く(?)同乗することにした私は、まこて「ぼっけもん」じゃらいねぇ。若気の至り(29歳で?)だよね、きっと。
  
三重県大紀町の錦で、左端は父親
(1977年3月)

6月28日には館山港(写真)からカナダへ向けて出航。
梅雨前線を通り抜けなければ帆を張れるような風がふかないから、航海を始めてすぐに「シケ」。普通は船には酔わない私でも、何を食べても飲んでもげーげー吐いて、、、。でも、その後はどんなに「シケ」ても酔わなかったから、人間の身体の順応性に感心したのでした。どこにも寄らず7月と8月の2ヶ月かかって航海した北太平洋は、天気が悪いとズボン下をはいてセーターにウールのシャツを重ね着するくらいの寒さでした。9メートルの「タヒチケッチ」という種類のヨットは、いかにもヒッピーの船という感じで、名前は「サンシャイン」。赤い船体に青いデッキでとてもカラフル。一つには見つけやすいという事もあったみたい。バラストにかなりのコンクリ−ト(3トン?)が入っていて絶対にひっくりかえらないけど、重いからスピードは出ない。だから、普通45日かかる航路を2ヶ月かかって、日本時間で9月1日にバンクーバー
島の北端に着いたのです。この島は四国より面積の多い島で南北に500キロ近くあり、丁度私がワッチしている時に見えてきて、その後ろに見えていた(本土の)海岸山脈の雪をいただいた山並みをいまでもはっきりと思い出せます。

航海中はクジラやアザラシやイルカもいたし、多数の渡り鳥が翼を休めていったり、あほう鳥が釣り糸にひっかかったのを救助したり、もちろん、たま(一週間に一回は台風の成れの果てが追いついて来てシケたから)には魚も釣ったり、動物たちとの遭遇は良い思い出。尾でやられたら一発だから、クジラが近づいてきた時は夜もワッチをしないといけなかった。一頭は寄ってきてしばらく離れなかったのがいたよ。船のすぐそばを潜ったまま通られるとヒヤヒヤした。イルカとか群れて何日も競争したりして付いてきたり。でも、その中の一頭はプラスチックの「レイ」が首にひっかかってて(嘘みたいな話だけど)サーカスのイルカみたいでね、苦しそうじゃなかったけど観ている方は悲しかった。
(1977年6月28日〜1977年9月1日)

 

2ヶ月かけてバンクーバー島の北端に着いたのが1977年の9月1日。台風が次々に追いかけてくる航海は大変だったけど、着いてからバンクーバーまでの旅は楽しかったね。船やヨットに住んでいる人間が多い土地柄で、いろんな人達に会い大自然の恵みを食料にしてね。10月半ばにバンクーバーに着くまでがハネムーンだったかも。 バンクーバー島とカナダ本土の間には何百という島があり、フィヨルドのような湾が次々とあって、陸や島はびっしりと針葉樹におおわれていた。日本と違うのは砂浜が少なくて米杉の枝が満潮線まで垂れ下がっていた。潮の流れの早いところには昆布が生えていて、食べてみたけど生だからおいしくなかった。蛸もいたよ。こっちの人は普通食べないから(ウニもね)大きくなって、ばかでかいのを捕まえた人から足を一本もらったこともあった。海で生活する人は漁師さんたちも含めてとっても親切で、「カナダに無事着いた」という親への電話は漁船の無線電話から。ジミーという太ったおじさんの新品の漁船から(タダで)かけさせてくれた。鮭なんかもよくもらったし、「日本から着いた」と聞いて夕食にまねいてくれたり、楽しかったね。写真の砂浜はバンクーバーまでの丁度真ん中あたりにあるコーテーズ島、この頃、桐島洋子さんが紹介している島だけど、'77年に寄った時はまだかなり田舎だった。前夫もそうだけど、ベトナム戦争時代にカナダへ「逃げてきた」アメリカ人がけっこう(今でも)このあたりには住み着いていて、大自然にいだかれて農業やったりとかしていたよ。薪をもやす大きな鉄のストーブ兼レンジを実際に使っていた。
薩摩おごじょじゃっがね。母方には私の祖父も含めて海外に移住とか、いろいろやっている(それで、思い出した、あなたが加世田出身だったから、うちの母は親近感をもったんじゃなかった?母は万世生まれです)からね。こっちに来てから聞いた話では、母のおじさんの一人はこのカナダ西海岸で(WW2前)鯨油工場をやっていたらしいから、見えない糸でつながっていたとしか、思えないところもあるのよ。私がイギリスに行くきっかけもカナダの外交官だしね。ここに来てここが住処なんだという気が確実にしたもの。人生って何がどこでどうなるかわからないね。

(彼女の母さんは、あのライオン”純ちゃん”と従兄弟らしいです。)

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